教育

近代教育システム「学制」の構築
教育の受益者は教育を受けるものとしたのは政治家、官僚、教育者の志の低さ、根性の卑しさから来る。空海の目指したごとく、教育は国を富ます人材いら人財を育てる国の基本政策でなくてはならぬ。受益者が個人として、どうしてその成果を公共のため、国のためにささげようと思うだろうか。教育の成果で受益するのは国でなければならない。したがって教育はすべて国の費用で行われなければならない。

 明治維新以降に進められた学校教育の近代化は、明治政府の基本政策の「富国強兵」と「文明開化」によるものですが、それは江戸時代より作られてきた学校を基盤とする事で急速な教育の近代化を成し得たのである。

 江戸時代の士農工商制度による身分格差から、武士と庶民は教育や文化の面においても、独自の制度・特色を形成していた。また、強大な軍事力と財政力で250以上の諸藩を統御しながらも、各藩の行政は各藩により行われており、教育や文化の面における各地域の特異性や独自性、及びそれらの間の格差は大きかった。

 武士階級として支配者に必要とされる儒学の学識と教養を身につけさせる為に設けられたのが藩校である。17世紀に一部の藩で塾形態、18世紀後半からは大規模な学校形式を採るものを含め徐々に各藩に普及、19世紀にはほぼ全ての藩に1校は設立され、武士階級は必要な識字力を持つようになった。武士に必須な武術の修練は道場で、居住地域での組や家庭における人間関係を通して、人間形成(武士道精神の育成)が図られた。幕末になると、藩校の儒学教育とは別に、国学、洋学及び西洋医学などが別の教育施設で導入された。

 庶民階級の人間形成は奉公や地域共同体での社会生活を通じて行われながら、17世紀以降の寺子屋の発達で、生活に必要な読み・書きの初歩を中心に、日常必須の算用などを修得するようになります。寺小屋は江戸・大坂などの都市部に発生し、18世紀後半からは農村部にも普及し、幕府や藩の指導や補助を受けることのない、自主的な教育施設であった寺小屋であったが、庶民は独自に、教諭所、心学講舎、郷校、報徳教など、様々な学習の施設や機会を作り出していた。この庶民階級の学習意欲が明治維新以降の急速な教育の近代化に貢献した事は容易に想像できます。

 幕末になると、学者や芸能者が私宅に設けた私塾が生まれ、漢学・国学・算学・医学・洋学などの伝習を緊密な師弟関係の下で武士・庶民の別なく行われるようになった。特に洋学は鎖国政策で蘭学以外は禁止されていたが、開国以降は、欧米の新技術や専門学の修得の基礎として西洋語学の修得を中心とする学校が江戸や長崎等に設立され、これらは新政府に接収され、近代高等教育の基盤を形成した。

 明治政府発足後の施政方針「五ケ条ノ御誓文」の第五項目中に「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」とあり、欧米諸国の近代文化の導入が求められていた。明治維新の最初の学校制度案である、「学舎制(国学思想により奈良時代の大学寮制度を模した案)」は京都で始まったが、明治政府部内で多数の同意を得られず、朝廷の儒学校であった「学習院」を母体とする「漢学所」と、国学を教授する「皇学所」とが設立されたが、実体は見られなかった。東京(江戸)では新政府により旧幕府の学校を改編し、明治2年6月「大学校」の設立がざされた。それは、旧昌(しょう)平坂学問所を、国学と漢学ををも併せた大学校に、分校として旧開成所を開成学校、旧医学所を医学校とした。明治2年7月政府の官制改革により教育行政と教育活動の双方を行う「大学校」が発足し、12月に大学と改称されると、「大学本校」「大学南校」「大学東校」と改称されます。

 教育行政官庁である大学が、明治3年2月、欧米の体系的な学校制度をモデルとした「中小学規則」及び「大学規則」を編成して太政官に願い出た。「中小学規則」では藩(県)に中学と小学とを設ける事とし、小学は八歳から15歳までの課程で普通学と「大学専門五科ノ大意」を修め、中学は小学を修めた16歳以上の人に大学五科の予備教育を授ける課程とした。「大学規則」は中央に大学1校とし教科・法科・理科・医科・文科の5科に国学・漢学・洋学から改めて欧米式の分科制とした。この「大学規則」で洋学派と国学派・漢学派との対立が激化し、国学派・漢学派が本拠たる大学本校を閉鎖し、大学の教育機能は、洋学機関たる大学南校と大学東校のみとなる。明治三年七月には、全国諸藩の石高に応じて入学生を派遣させる「貢進生」制度を導入し、全国規模での人材発掘を試みた。大学南校は優れた学生や教員を選抜し明治3年8月には留学生を米国に派遣し、大学東校(医学校)では当時最も優れてたドイツ(プロイセン)医学を採用し、明治3年10月には留学生をドイツ(プロイセン)に派遣、そして明治4年7月二人のドイツ(プロイセン)人教師が大学東校に着任しました。

 政府の欧化教育方針に呼応して諸藩も洋学校を開設し始め、また民間でも福沢論吉の「慶応義塾」などの洋学塾が設立されていった。


 明治4年7月の廃藩置県で中央集権国家体制に変り、そのわずか四日後の7月18日に大学に変り教育行政を行う文部省が設置された。それに伴い大学は廃止されるが、大学南校・大学東校は単に「南校」「東校」と改称される。更に、旧来の身分制に拘束されて人材選抜機能を十分に果たせなかった「貢進生」制度は、明治4年9月に廃止されました。


 欧米学校制度に関する法規や文献の翻訳及び調査を進めながら、明治4年12月、箕作麟祥、内田正雄などの著名な洋学者達にに国漢学者の木村正辞、長ひかる(三洲)を加えた12人の「学制取調掛」を任命して、欧米の学校制度をモデルにした学校制度法令の起草に当たらせた。「学制」案の大綱は明治5年1月上旬に、その大綱に基づく条文案は3月に、太政官へ上申された。しかし財政面の問題から異論が多くでた為、太政官の認可を得るのに6月下旬まで費やした。

 そして明治5年8月2日(1972年9月4日)に「太政官布告第二百十四号、通称「学制序文(学制の趣旨)」が発せられた。これは個人主義、実学主義などの教育を標傍し、基礎的な学校教育を全ての人々に付与する制度構想とそれへの民衆の自発的参加を促していることにおいて、優れて近代的な教育宣言であった。そして立身・治産・商業の元である教育は、民衆の自発的参加と教育費の受益者負担を原則とする方針を決定した。

 続いて明治5年8月3日(9月5日)文部省布達第十三号及び第十四号に「学制」が公布され、ここに我が国の近代教育が開始された。「学制」本文で、全国を8大学区に分け各大学校1校を、1大学区を32中学区に分け各中学校1校を、更に1中学区を210小学区に分けて各小学校1校を、それぞれ置くとした。全国に大学校8、中学校256、小学校53760を設置しようという壮大な計画であった。

しかし明治6年4月には7大学区に改正されて実施となった。小学校は各4年制の下等小学と上等小学とから成る尋常小学を本体とし、女児小学・村落小学・貧人小学・小学私塾・幼稚小学等も用意されてた。小学校においても学力水準に応じて児童を配置する「等級制」が採用され、下等・上等両小学科とも各八級に区分された。各級の標準学習期間は六か月で、進級は必ず試験によることとした。
中学校は各三年制の下等中学と上等中学を本体とし、大学校は理学・化学・法学・医学の4科を置くとされた。教員を養成する師範学校制度、進級試験制度、海外留学生、学校財政等も規定されていた。これらの学制の最大の特徴は、身分に関係なく国民に開放された単一体系を採用した事です。当時米国を除けば国際的にもほとんど例を見ない画期的なものでした。

 「学制」は、明治六年から全国的に施行され、7大学の設立と学制の規定の半分程度の24000以上の小学校が設立されたが、当時の経済状況から8年度の児童の就学状態は、名目で男女平均35%、出席状況を踏まえた実質では26%程度に過ぎなかった。スコット(米国人)を教師に招いて欧米での公教育教授法や教科書の翻訳編集しながら、師範学校を整備していった。更に省庁の専門教育機関として、開拓使の札幌農学校、工部省の工部大学校、司法省の法学校なども設置されていった。特筆すべき事は、文部省が米国人女教師を招いて明治五年二月東京に開設した「女学校」(東京女学校)を設置したのをはじめに、少数ながら史上初めて女学校が設けられたことである。


 明治6年に文部省の顧問として招聘された米国人ダビッド・モルレーと文部省の実質的責任者であった田中不二麻呂とが中心となって、明治10年ごろから「学制」の改正作業を開始した。

 田中不二麻呂は明治維新後新政府に仕え、明治2年10月大学校御用掛となり、その後教育行政に参画することとなった。明治4年10月文部大丞に任ぜられ、欧米派遣岩倉大使一行に理事官として加わり、欧米諸国を巡歴して明治6年3月に帰国した。彼は主として各国の教育事情を調査し、その報告書を「理事功程」として提出している。これは文部省が六年から八年にわたり、全一五巻として出版し、海外諸国の教育を明らかにする参考書とした。これには、アメリカ合衆国・イギリス・フランス・ベルギー・ドイツ・オランダ・スイス・デンマーク・ロシアの教育制度を実地の調査研究によって詳細を報告してる。

 アメリ力人ダビット・モルレー(高橋是清が通訳していた事もある)は明治6年6月着任、同年8月督務官、明治7年10月から明治11年12月まで文部省において「学監」の職にあった。これより先、モルレーは米国にあってラトガース・カレッジの数学教授の地位にあったが、明治5年(1872)駐米日本弁理公使森有礼の書簡に答えて、教育問題は政治家にとってまず何よりも重要視すべき事と主張し、森の質問に答えて、五項目からなる日本教育改革論を述べている。第一項には、「各国民は自国民の要求に適する教育制度をつくること」とあるが、その中で彼は各国の教育制度はそれぞれの国民的特性をしんしゃくすべきであって、伝統と慣習にそわなければならないとし、さらに成功する学校制度は国民の要求から自然に成長するものでなければならないといっている。そして一国の教育制度を改革する場合には、すでに存在する教育機関をできるだけ保存することに努めなければならない。日本の学校はすでに国民生活を構成する要素となっているのであるから、日本は根本的な教育の変革を願うベきでないといっている。これによっても彼の教育意見がいかに堅実なものであったかがうかがわれる。学制起草にも関係した辻新次が、明治初年には文部省の日本人が急進論者であり、雇年国人がかえって保守論者であったといっているが、これはモルレー学監をさしたものである。

 モルレーはこのような学監の地位にあって、学制発布以後の教育指導者として、明治6年12月および明治8年2月に、「学監ダビット・モルレー申報」を文部省に提出している。英語あるいは仏語を日本の国語にすべしと過度な改革論を唱えた森有礼(初代・文部大臣)等に反対して、国語を変更すべきでないことを提言し、日本語の教科書を編修して西洋の学術を教授する重要性を説き、教員養成の急務と女子教育を奨励すべきことを唱えた。

 明治11年5月「日本教育令案」として太政官に上申した。これは参議伊藤博文により「教育令」案に修正され、元老院の審議を経て、法制を現実に適合させ教育制度の定着を狙い明治12年9月太政官布告として公布された。町村の教育行政実務を担当する「学務委員」は住民の公選により任命され、童の小学校への就学の期間や条件を緩和し、公立小学校の教育課程の編成権を学務委員にゆだね、さらに私立学校の設置を勧奨した。この通称・自由教育令が施行されると就学率が低下し公立小学校を廃止して寺子屋風の私学に改編するなど、初等教育の明らかな後退現象が起きた。
明治政府上層部内では、急激な近代化が社会秩序を混乱させてるとし、明治天皇の侍講元田永孚が、明治12年8月頃に儒教道徳の教育を復活強化を提唱した「教学聖旨」が天皇のご意向として出される。そそれに対して伊藤如・/textarea>
1.学務委員を府県官による任命制
2.小学校への就学の督励を強化
3.小学校教育課程や学校の設置・廃止等に関する文部省及び府県当局の権限を強化
4.教員の言動に対する規制
5.教科書の取調べと認可制の実施
6.教則における儒教的徳育の重視

 これ以降就学率は上昇に転じ、実態に即した教育制度に生まれ変わりつつあった。しかし、西南戦争からくる戦費処理から経済的苦境から、明治18年8月公布の再改正教育令(第3次教育令)は、公教育の最低水準を維持しつつ、教育費の節減に重点を置いたものだったが、小学校のほかにより簡易な「小学教場」を設置し、半日又は夜間の授業も認め、児童の最低就学期限について規定せず公教育は後退することとなった。


 明治18年12月近い将来の立憲体制の発足に備えて政府の機能を強化するために、太政官制に代えて内閣制度が発足し、初代内閣総理大臣伊藤博文のもと文部大臣に森有礼が起用された。森文相に就任するや再改正されたばかりの教育令を廃止し、明治19年学校種別にそれぞれの学校令を制定して、今後の国家及び社会の発展動向に柔軟に対応し得る教育制度の構築を期して下記五種の学校令を公布した。

1.帝国大学令「東京大学を軸とし他の官省設立の専門教育機関を統合した帝国大学の設置」
2.中学校令「帝国大学への入学者を育成する高等中学校を全国に五校設置と各府県一校の公立尋常中学校の設置」
3.小学校令「各郡一、二校の高等小学校と各町村の尋常小学校とを配する」
4.師範学校令「高等師範学校(全国に一校、官立)、尋常師範学校(府県に各一校、府県立)の二段階から成る独自の師範学校制度」
5.諸学校通則

 儒教的徳育中心主義を批判し、集団性と合理性を基盤とした社会的倫理性の形成を重視し、国際的位置を向上させるために、教育による愛国心の育成を特に重視し、その手段として学校における軍隊式教育や軍事訓練を積極的に奨励した。また、男女平等的な観点から女子教育を重んじ、効率性を高める学校管理(学校経済主義)や教育費の受益者負担方式を広く採用するなど、異色の方策を展開した。


 明治22年に大日本帝国憲法の発布され、日本は立憲制国家を形成することになった。公教育を含む国政の全般が憲法の規定に従って運営されることになったのだが、この憲法では直接教育に関する条文は設けられず、天皇の大権事項に含まれ、教育法規の勅令主義方式が成立することとなった。

 総理大臣山県有朋は、国家の発展の為に徳育方針の確定化を軸とした公教育理念を一定化させ、倫理道徳教育を推進する必要性を感じ、教育の根本を定めたのが「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」です。この教育勅語の動機の一つに、軍人勅諭で軍隊内部の混乱を防止して、国家防衛の為の意思統一を図る事に成功した事も大きく影響してるようです。教育勅語の道徳価値観で国民の意思統一を図り、封建制度からの脱却による社会秩序の混乱を防いで、近代国家として日本の発展に生かそうとしたものです。井上毅・元田永孚によって起草され、明治23年10月31日発布、明治24年2月ごろまでにその謄本を全国の学校に交付されると、教育勅語の奉読と拝礼を主とする学校儀式が生まれ、国民道徳及び国民教育の基本とされ、やがて国家の精神的支柱として重大な役割を果たすこととなった。

 地方制度の確立に伴って改編が不可欠とされ、森文相期の小学校令を廃止して地方自治制と教育との法制的関係を明確化した第2次小学校令が明治23年10月に公布された。翌明治24年中に施行上の諸細則が整えられ、この第2次小学校令は明治25年4月を期して実施され、小学校は制度的に新しくなった。翌明治24年に中学校令が部分改正され、府県立中学校の一府県一校の制限が廃されたほか、高等女学校が中学校の一種として制度的に確認された。明治25年に師範学校に関する諸規則が一括改正されてその教員養成学校としての独自性が確定化された。

 明治26年3月文相に就任した井上毅は、実用に即する人材を育成する目的から実業教育費国庫補助法を成立させて、実業補習学校・徒弟学校・簡易農学校などの実業学校を制度化した。帝国大学令を改正し、専門研究と教育の推進の為に専門分野を明確化させた講座制を採用し、当時既に慣行化しつつあった教授会の権限を公認して大学の自治を法制化した。


 明治29年に小学校教育費への国庫補助金が、日清戦争で得た賠償金(下関条約)の約3%を教育基金としその利子を普通教育費に充てることで15年振りに復活した。明治33年には市町村立小学校教育費国庫補助法(義務教育費に対する国庫補助制度)が公布され、第3次小学校令で、四年制で単一な内容から成り無償制を原則とする義務教育制度がここに確立するに至った。必須教科目は修身・国語(従来の読書・作文・習字を統合)・算術・体操の四科目から成り、就学の始期と終期とを四月学年制の採用(明治25年)に合わせて明確化するとともに、義務主体としての学齢児童保護者の要件を定められた。この時に構想に上がってた6年制は見送られたが、明治40年に至って尋常小学科の修業年限を二年延長する小学校令中改正により、義務教育六年制が翌明治41年度から逐年実施された。教科書は検定制が採用されておりましたが、不正が横行していた為に、明治34年文部省は採択をめぐる不正行為に対して罰則を規定した。しかし明治35年12月の贈収賄事件が全国規模で摘発されたのを機として、明治36年小学校令を一部改正し、不正防止の為に帝国議会からもしばしば要望されていた教科書の文部省による選定・編集、いわゆる届出制から国定教科書制度を明治37年度以後実施することとした。国定制の結果、教科書の価格は従来の民間発行書に比して大幅に低廉化し、保護者の負担が軽減されることとなった。そして就学率も明治35年に男女平均で初めて90%を上回り、国民皆学が実現された。そしてこの第3次小学校令は昭和16年の国民学校令まで続く事になる。

 明治28年には高等女学校についての初めての独立法規である高等女学校規程が公布されていたが、明治32年2月男子の高等普通教育を行う中学校令、女子の高等普通教育を行う高等女学校令、及び諸実業学校を包括する実業学校令の三勅令が公布され、これにより第二次大戦終了時までの中等学校制度の基本型が成立した。

 高等教育においては、井上文相期に専門教育を軸とする地方大学として考案された高等学校が、予期に反して帝国大学への進学準備教育としての大学予科主体となってしまったので、文部省は明治三36年新たに専門学校令を公布し、帝国大学以外の既に成立している専門教育機関を学校制度体系に位置付けた。これにより数多くの官公私立の専門学校が出現したが、帝国大学との制度上の格差をめぐって論議を呼ぶこととなり、人材需要の高まりにこたえて、明治30年京都に帝国大学が増設され、明治40年仙台に東北帝国大学、明治44年福岡に九州帝国大学がそれぞれ設置された。

 教員養成をめぐっては、明治30年師範学校令を廃止して新たに師範教育令が公布される一方、従来の高等師範学校、女子高等師範学校(共に東京)に加えて明治35年に広島高等師範学校、明治41年に奈良女子高等師範学校がそれぞれ設置され、また明治35年に臨時教員養成所制度が発足し、急増する中等学校、教員需要にこたえることとした。


明治5年文部省が設立した書籍館は、博覧会事務局や東京府に管轄が移ったこともあったが、明治13年文部省の所管に復帰し東京図書館となる。明治30年の帝国図書館令により、帝国図書館に改組された。明治32年に独立の図書館令が公布され、共図書館は急速に発達し、明治32年から大正5年までの17年間に約30倍に増加した。

博物館は殖産興業を目指す社会教育施設として着目されており、明治4年創設直後の文部省に博物局が置かれ、明治8年独立して東京博物館と改称、明治10年上野に移築して教育博物館と称した。同じ明治8年に博覧会事務局も内務省所管の博物館に改編され官立の二系統の博物館が存在した。後者の博物館は明治14年内務省から新設の農商務省へ、更に明治19年宮内省へと移管され、帝国博物館(明治22年)、帝室博物館(明治33年)へと改称された。明治後半には、大阪・京都などの府県にも公立の博物館が設置されるようになった。

明治44年省内に通俗教育調査委員会が設置されるなど、学校制度形成の陰で十分展開されなかった社会教育についての政策の進展が見られるようになった。

近世から存在していた若者組・若連中などの地域青年組織は明治以後廃止され、青年会・夜学会などの自主的な青年団体が形作られてきた。明治前半期にはそれらは自主性にゆだねられていたが、日露戦争以後政府は社会教育の一環としてその指導・育成に着目するようになった。明治38年まず内務省が府県に対し地方青年団体の向上発達に関して通達し、次いで同年文部省も同様に地方青年団体の指導と奨励について通達した。

教育政策の形成に当たり、合議制機関の審議にゆだねることにより社会の広範な合意を得ることが望ましいと考えられるようになった。既にこれは井上文相期に構想されていたが、明治29年文部大臣の教育政策諮問機関として「高等教育会議」が初めて設置され、明治30年代から大正初期にかけての重要な教育制度改革は多くこの会議の審議を経て実施された。




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